いりぐち / にっき / あんない / らじめにあ / しょさい / ほんだな / おんがくしつ / ぷろふぃーる / けいじばん / りんく / へんてな
いぬリンク / こいぬ / サルみかん / みそじかん / けもの / えんじぇるりんくす
山羊アンテナ / GALAXY ANTENNA / だめちゅんアンテナ / あおみかん / Cafe KANONな あんてな
サラエボでの銃声から、世界規模の大戦争へと発展した第1次世界大戦は、1919年のパリ講和会議によって、一応の終結をみた。そして、敗戦国となった同盟側諸国は、それぞれに勝者となった連合側諸国と条約を締結することになった。
対ドイツのヴェルサイユ条約、対オーストリアのサン・ジェルマン条約、そして対ブルガリアのヌイイ条約に対ハンガリーのトリアノン条約………。特にヴェルサイユ条約は、領土の大幅な割譲と巨額な賠償金という苛烈を極めたものであり、その条約履行はドイツ経済を破綻に追い込み、結果としてヒトラー率いるナチスの台頭を許すこととなった。
しかし、同じ敗戦国であるトルコに対しては、二度条約が締結されている。すなわち、1920年のセーヴル条約と1923年のローザンヌ条約である。しかも前者は、トルコ領の大幅な削減と巨額の賠償金の支払いなどを求める内容であったのに対し、後者は、小アジアと大戦前のヨーロッパのトルコ領の保全、治外法権の廃止、財政管理権の回復など、かなりトルコに有利な内容になっている。この二つの条約の間には何があったのか?
その答えを握るのが、これから挙げる一人の人物である。その人物は、欧州列強の野望の前に、滅亡の淵に立たされていたトルコにあって、「国民軍」を率いて列強諸国やその尖兵と戦い、勝利し、ヨーロッパから小アジアにまたがる現在のトルコ領を確保した。そして、帝政廃止後のトルコ共和国における初代大統領として、15年の治世の間に、宗教改革と産業革命と文化革命を引き起こし、トルコを近代的な政教分離の民主主義国家へと変貌させたのである。
その人物の名は、ムスタファ・ケマル・パシャ(パシャは将軍の意味)。
後に議会より、トルコの父という意味のアタチュルクという姓を贈られたこの人物は、まさしく、救国の英雄の名に相応しい人物であり、その功績は、今までの著名な歴史上の人物に十分比肩しうるものであろう。
歴史の流れは、一人だけでは変えることは出来ない。しかし、ごく稀に、一人の人間の強力なリーダーシップが、その歴史の流れそのものを変えることがある。今回は、ムスタファ・ケマル・アタチュルクという我が国では馴染みの薄い人物を通じて、その歴史の流れが変わっていった軌跡を辿ってみることにしたい。
ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、1881年、当時はトルコ領であった都市セラニキ(現ギリシア・テッサロニキ)で、下級役人であった父アリ・ルザと母ズベイデの間の子として生まれた。名前はムスタファ、当時のトルコの風習で姓は無かった。彼が姓を持つようになるのは、後に彼がトルコの大統領となり、全ての国民に姓を持つよう命令してからのことである。
ムスタファが生まれたころのトルコを支配していたのはオスマン・トルコという老帝国であった。1299年の建国以来、最盛期には三大陸に覇を唱えた大帝国であったが、彼が生まれたころには既に衰退の一途をたどっており、版図も小アジアを除けば、ヨーロッパにアルバニア・マケドニア、中近東にアラビア半島の沿岸部を残すのみであった。
そのような時代の中で成長したムスタファは、7歳の時に公立小学校に入学したが、大半がコーラン(イスラム教の聖典)の章句の暗記だったという授業に反発し学校に行くのをやめてしまう。敬虔なイスラム教徒であった母は衝撃を受けるが、税関の役人として海外事情に触れる機会が多かった父は理解を示したのであろうか、ムスタファをシェムシ・エフェンディが創立した西欧流の私立学校へ入学させた。
だが、父の死により彼は学校からの退学を余儀なくされる。その後、母の兄の農場へと移り住み、農業に従事することになった、そして11歳の時に聖職者になって欲しいという母の希望で再びセラニキで学校生活を送ることになったが、やがて一年とたたずに学校へ通うのをやめ、母の反対を押し切ってセラニキの陸軍幼年学校へと入学した。これが後のムスタファの人生を決定づけることとなった。
こうして陸軍幼年学校へ入学したムスタファは、歴史と数学においては抜群な成績を修め、級友たちとの論争では再三にわたって彼らを論破する少年であった。だが、無口で孤独を好む性格が災いしてか、級友たちの間ではいつも孤立していた。
そんなムスタファに注目する人物がいた、彼に数学を教えていた同名のムスタファという教師である。その教師は彼ムスタファに低学年生徒への補習教師の地位を与えたうえで、同名ではまぎらわしいからと彼に完全なという意味を持つケマルという第二の名を贈った。当時のトルコでは師から名前を贈られるのは大変名誉なことであった。こうして少年はムスタファ・ケマルを名乗ることになる。
やがて、17才で陸軍幼年学校を卒業したムスタファ・ケマルは、マナストゥルの陸軍士官学校、首都イスタンブールの陸軍高級士官学校を経て、ついに飛び級で陸軍大学への入学を認められ、中尉となった。そして彼は大学で、「祖国(ヴァタン)」という秘密結社に属し、時の皇帝アブドゥル・ハミット二世の専制政治の打倒と西欧風の立憲国家の確立を目指して活動を開始したのである。
しかし1904年12月末、「祖国」の活動が皇帝アブドゥル・ハミット二世の秘密警察にかぎつけられてしまい、ムスタファ・ケマルは他の会員とともに、イスタンブールの政治犯専門の刑務所に収容されてしまった。あわや裁判によらずに抹殺される所であったが、当時、陸軍大学を監督する立場であり、自らの失脚を恐れた陸軍教育総監イスマイル・ハク・パシャによる皇帝に対する必死の弁護により、ケマルらは処刑をまぬがれたのである。
かくして1905年、ケマルは陸軍大学を卒業し大尉となったが、皇帝に対しては弁護はしたものの、ケマルの危険性を熟知していた老練な官僚でもあった教育総監イスマイル・ハク・パシャによって、当時軍事的にはさして重要では無かったダマスカス(現シリア首都)の騎兵連隊に配属されることとなった。
時にケマルは24才、こうしてケマルの軍人としての活動が始まった。
こうしてダマスカスへ配属されたケマルは、結局面白くない二年間を過ごすことになった。だがやがて、友人フェトヒの勧めにしたがって、故郷セラニキの軍団への転属を願い出るようになった。というのも、そのフェトヒ自身よりセラニキで結成されつつあった大掛かりな革命組織の話を聞かされたからである。1907年秋に至ってその転属願いは受理され、ケマルはセラニキの軍団の参謀部へ転属となった。
ところがその大掛かりな革命組織−統一と進歩のための委員会、世界史上では青年トルコ党とも呼ばれた−がケマルにもたらしたのは失望の二文字だった。特にその組織のリーダー的存在であったエンヴェルが唱える、オスマン・トルコだけではなく遠く中央アジアに至るトルコ系諸民族を糾合し、一大トルコ人国家を作り上げようとする考え方、すなわち汎トゥラニズム(大トルコ主義)に基づくトルコ帝国再生という主張は、ケマルにとっては夢想以外の何物でもなかった。
ましてや相手が間違っていると確信すれば直言して憚らないケマルの性格である、たちまち二人は事あるごとに対立するようになった。しかし対立したと言っても、片や既に革命派青年将校たちのリーダー的存在であり、汎トゥラニズムによって大勢の支持を得ていたエンヴェルと、大学を出たての新米将校であり、汎トゥラニズムを否定するケマルとでは全く勝負にならなかった。それほど汎トゥラニズムという思想は当時のトルコの軍人たちの心を捉えていたのである。
かくしてケマルはこの革命組織の中でも孤立し、後にこの統一と進歩のための委員会がクーデターを起こし、エンヴェルたちが帝国の実権を握った後も、さしたる重要な軍の要職につくこともなかったのである。
ところで、帝国の実権を握ったエンヴェルたちが直面したのは、帝国領内で続発する民族独立の動きだった。エンヴェルたちはこれらの独立運動に対して武力をもって対抗していく。この武断的な姿勢が、1915年のかの悪名高いアルメニア人大虐殺事件へとつながるのだが、それはまた別の話である。
そして一方では、すでに親密な関係となっていたドイツへの傾斜を更に強めていくことになる。もともと親独家であったエンヴェルは、やがてドイツよりリーマン・フォン・ザンデルス将軍を団長とする軍事顧問団を受け入れ、ザンデルス将軍を事実上エンヴェル陸相に次ぐ地位に相当するトルコ陸軍総監に任命した。これによりトルコ軍の実権はドイツに握られることになった。こうして日を追うごとにエンヴェル率いるトルコはドイツへの傾斜を強めていった。
そのような中、ついに1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエボにおいて、時のオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド大公夫妻が、セルビア人青年が発射した銃弾によって暗殺された。世に言うサラエボ事件である。この事件が契機となり、史上初の世界的な大戦争である第1次世界大戦が勃発した。
エンヴェル率いるトルコは、当然ドイツが主導する同盟側についてこの大戦に参加することになった。そしてこれは、結果としてオスマン・トルコという老帝国が滅亡の道へと突き進む始まりとなった。
しかし、この大戦によってムスタファ・ケマルという一人のトルコ軍人が、一躍英雄として名を馳せることになるのである。