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★前に「最近カップラーメンばっかりです。お嫁さん欲しい。」と日記に書いたら、「女性はお手伝いさんではありません。調子に乗らないで下さい」という苦言が来たそうな。
………いやはや。(^_^;)
別にその考え方が違うとか言うつもりは毛頭無いのですが、もう少し言葉の使い方というものがあるんじゃないかという気がします。
よく掲示板やメーリングリストなどで、いわゆる論争やケンカといった事態に遭遇することがあるのですが、半分は文章の拙さからそういう事態へ至るということが多いです。言っていることが正しくても、レトリック(修辞)というものを無視したらその文章はおそらく半分も真意を伝えることは出来ないと思います。
インターネットは文章の世界です。
しばらくはその状況が続くでしょう。
その世界の中では文章は強力な道具となりえます。
なるべく有効な道具として使いたいですね。
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★私のコンピューターやネットに対するスタンスですね。
まあ現実の仕事は、信用金庫の営業という結構アナログな仕事をしていますので、「コンピューターが社会に利便性をもたらす」といったようなビジネス書を目にすると、「現実はそんなもんじゃないだろ」と思わず心の中で毒づいてしまいます。(苦笑)
前にも書いたような気がするのですが、コンピューターやネットと言った類も、要は人間の作った道具なんですよね。別にそれ以上でもないしそれ以下でもありません。人間の使い方次第でいくらでも変容を遂げるものなんですよね。そう言った論法をとれば、いわゆるサイバースペースというご大層なネーミングで呼ばれているこのような場も、結局は現実の社会の延長上でしかありませんし、縮図にしか過ぎないとも思います。
今回、不幸にして起こったいわゆる出会い系サイトを利用して起きた殺人事件にしても、結局は昔の雑誌の文通欄がネット上に拡大したために起こったものですし、ネット詐欺にしろサイバーテロにしろ、結局は人間が現実社会で思いつくかぎりの事象がネット上で再現されたにしか過ぎません。そう考えると、人間というのは精神的にはあまり進歩していないような気はします。
なんか偉そうなことを書いてしまいましたが、(^_^;)
コンピューターにしろネットにしろ、要は人間の使い方次第でしょう。
様々な使い方が出来ることを認識したうえで、なるべく良い道具の使い方が出来ればいいなと思います。
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★この言葉は、初代の難民高等弁務官を務めた探検家フリチョフ・ナンセンが、革命後の混乱によって飢餓と難民が急増したロシアの現状を憂い、国際連盟の場で発した言葉です。ナンセンは、国家の利害に縛られた各国代表に、国家の利害を越えた人道的な見地から物事を考え、救いの手を差し伸べることを説きました。
……しかし現実には、各国政府は何ら対策を講じようとはしませんでした。
私たちは社会の中で生きています。
その構成員として、時には様々な「しがらみ」に巻き込まれることがありますし、その社会全体の雰囲気に巻き込まれることも往々にしてあります。それは人間として生きている以上避けられないものであるのかもしれません。
問題は社会全体が一つの考え方に凝り固まったときです。
そう言う状況が出来上がる要因は様々です。特に一人の傑出したリーダー、マスコミ、そして一片の流言、これらによる情緒的な扇動というのは、それこそ歴史上数多くの事例が出てきます。そして、それらによって扇動された大衆による少数の人間に対する抑圧・虐待というものも歴史上数多くの例があります。
ナチス・ドイツは反対者やユダヤ人たちを徹底的に弾圧しました。しかし彼らを選んだのは他ならぬドイツ国民でした。
チャップリンは共産主義者としてアメリカから追放されました。彼をそこまで追いつめたのは、一人の議員による扇動とその扇動にのった議会と一般大衆でした。
こういったものから逃れるためにはどうしたら良いでしょうか?
その答えの一つが冒頭に挙げた言葉ではないかと思います。
他人の言葉を無条件に受け入れず、自分はどう思うかを考える。
他人がしているから自分もするのではなく、少し立ち止まって考える。
……難しいですよね、かく言う私もやり遂げる自信はありません。
ですが心に留めておくことは可能だと思います。
そうするだけでも全然変わってくると私は思います。
ちょっと今回はまとまりの無い文章になってしまいました。
後で自分なりに考えがまとまったらもう一度アップしてみることにします。
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★経済規模で観ると、関西とカナダ一国とはほぼ同じくらいの規模を持つそうです。(大前研一著・地域国家論より引用)
ただしこれは、1993年時点での比較でのことであり、その後の我が国の低迷ぶりを見ていると、多少は変動しているとは思いますが。
ちなみに首都圏(一都三県)は、フランス一国とほぼ同じくらいだそうです。
何故こんなことを出したかというと、既に我が国の各地域は、経済力の観点から言えば、十分に「国家」経営が出来る程度にまで大きくなったということを言いたかったからです。
明治以来、我が国は強力な中央政府と府県という典型的な中央集権型国家を継続してきました。第2次大戦後、一部、地方への権限の委譲が行われましたが、大枠としては、我が国のかたちは終始一貫しています。
経済基盤が弱かった初期はそれでうまく機能したのかもしれませんが、我が国の経済力の増大にともない、中央省庁の汚職、地方へのバラマキなど、負の面のほうがかなり目立つようになってきました。
前にも書き込みましたが、現在、「平成の大合併」とも呼ぶべき、全国各地の市町村の再編が進もうとしています。しかし私が不思議に思うのは、市町村レベルでは過去に何回も大規模な再編が進んでいるのに、都道府県は明治以来、枠組み自体が全然変わっていないという点です。
国の下で地方行政を司る単位としては、現行の都道府県制は明らかに手狭になっていると思います。それでは、それに代わる行政単位としては何が相応しいのでしょうか?
日本を一つの国として見るならば「道州制」、一つの連合体として見るならば「連邦制」、このいずれかになる可能性は高いですね。現実性から言えば前者の方が可能性が高いでしょうが。
いずれにしても憲法改正は視野に入れなければならないでしょう。
別に憲法は「天壌無窮の神勅」ではありません。あくまでも人によって作られたものですし、日本国憲法も大日本帝国憲法の改正という形で公布されていますしね、改正すべきところは禁忌視することなく、堂々と議論すべきだと私は思います。
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★…う〜ん、決算が近づいているせいか、本業がとても忙しくなっています。
暇が欲しいですね。
さて表題の言葉についてですが、この文章だけを見ると、黙っているのが美徳と言った印象を受けますね。
私はそうは思いません。
「沈黙は銀」と言っていますよね。
ということは、別に雄弁であること自体に全く価値がないというわけではなさそうです。むしろ、下手に雄弁であるよりは寡黙な人であるべきだといったような意味合いの方が近いかなという気はします。
ただ沈黙しているだけでは、事態は一向に進まないだけですしね。というわけで、場合によっては「雄弁も金」ということも言えると思います。
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★井沢元彦氏の言葉を借りれば、長い我が国の歴史の中で、いつの時代でも日本人に共通している考え方として挙げられるのが、「和」と「穢れ」だそうです。
「和」についてはご存じの方は多いでしょうね。争いをせず、ひたすら話し合いによって物事を決めてしまう姿勢ですね。この姿勢がいわゆる異質なものを排除することや、一旦決まったことに全員で同じように行動するといったことに繋がり、結果として、いじめ問題や他の国では見られない異常なほどの一時の流行現象といったものに繋がっていると私は考えています。
「穢れ」は少しピンと来ないかもしれませんね。清潔さに対する異常なほどの執着、汚れや臭いを極端に嫌う潔癖さといったものでしょうか。特に血で汚れることに対する嫌悪感は極端だったそうです。そしてそのことが「穢れた」と考えられたものを扱う人々に対する差別へと繋がり、今の同和問題へと繋がっているそうです。
まあ、何が言いたいかというと、今の我が国の社会では、これらの二つの悪い面が如実に現れているのではないかと私なんかは思うわけです。今まで通りにやっていたらどんどん悪い方向へ行くのはわかっているのに、いざ新しいことをやろうとすると集団で潰しにかかる国民性。他人と同じことをしないと「流行遅れ」だとか「ダサい」だとかという言葉で排除してしまう国民性。特に後者なんかは、「売国奴」や「国賊」や「非国民」といった言葉に置き換えてみれば面白いと思います。
……一度、別の視点からものを観てみるのもいいのかもしれませんね。特に一つの価値観に拘泥してしまうのは大変危険なことだと思います。色んなものの考え方に接し、見聞し、理解する。これらの行為は決して無駄な行為なんかではないと私なんかは思うのですが。
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