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★何も道路公団の論議に限ったわけでは無いですが、我が国では改革をしようとしても、総論賛成・各論反対という姿勢に終始して結局ほとんど何も出来ないまま終わるということの繰り返しをここ10年ほど続けているような気がしてなりません。
まあ、今では業界団体だけでなく労働組合でさえも利益団体と化してますからね。かつて大前研一氏が、政・官・財の癒着構造を指して「鉄の三角形」と呼び、既得権益を膠(にかわ)に例えていましたが、まさにその通りだと思います。今では、労も含めて「四角形」とも称すべきなのかもしれません。
ただ、既得権益というものは、実際に現在の国民の権利を擁護しているものも少なからずあるので始末に負えません。
「改革もしますし、国民の利益も守ります」という甘っちょろいことを言っている某政党がありますが、考えてみれば、これまでの歴史上で失業・不況・増税がなしに達成された改革なんか見たことがないですね。(現実に80年代のイギリスの改革なんかもそうですし、アメリカでも好況に突入する前には猛烈な勢いで銀行が倒産しましたし)
要は将来、我が国を良くするために本気で改革をするつもりがあるのかと言うことです。改革には必ず痛みが伴います。その痛みに今のうちに本気で耐えるつもりがあるのか、ポイントはそこにあると思います。
少なくとも、後世の子孫の世代に石を投げられないような選択が出来ればいいと思っています。
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★私が銀河英雄伝説という作品に出会って、既に10年以上の年月が経過しました。
当時、私は高校生でしたが、この作品ほど、私の物の考え方に深い影響を与えたものは他にはありません。
そして、中でも強い共感を抱いたのが、ヤン・ウェンリーという一個人の生き方でした。
「国家が、社会的不公平を放置して徒に軍備を増強し、その力を、内に対しては国民の弾圧、外に対しては侵略という形で乱用するとき、その国は滅亡への途上にある。これは歴史上、証明可能な事実である。」
「……私は最悪の民主政治でも最良の専制政治にまさると思っている。だからヨブ・トリューニヒト氏のためにラインハルト・フォン・ローエングラム公と戦うのさ。こいつは、なかなかりっぱな信念だと思うがね」
「歴史とは、人類全体が共有する記憶のことだ、と思うんだよ、ユリアン。思い出すのもいやなことがあるだろうけど、無視したり忘れたりしてはいけないのじゃないかな」
「宇宙はひとつの劇場であり、歴史は作者なき戯曲である」
「生意気言うな、子供のくせに。子供ってのはな、おとなを喰物にして成長するものだ」
私が銀河英雄伝説という作品の中で、印象に残っている文章のほとんどが、ヤン・ウェンリーが発した(あるいは叙述した)言葉であり文章でした。現状の民主主義国家の堕落を嘆きながらも、その核であり建前でもある民主主義の理念・理想を護り続けた等身大の人物として、架空上の人物でありながら、その言葉は大変なリアリティーをもって迫るものがありました。
以前、十二国記の作者である小野不由美先生は、銀河英雄伝説という作品の中で突きつけられている命題は、ラインハルトかヤンか?ではなく、ラインハルトかトリューニヒトか?であろうという趣旨のことを述べられていたのですが、私も全くその通りであると思います。
ラインハルトに代表される清新な専制政治とトリューニヒトに代表される腐敗した民主政治、どちらを選ぶか?と問えば、現代の民主国家を思い浮かべれば、おそらくは前者を選ぶ人たちが少なからず存在するだろうと私は思います。
しかし、この小説でのヤンのメッセージを理解された人なら、ほとんどの人が民主政治の理念の大切さを感じておられるだろうと思います。
そして、その理念の下に短い人生を駈け抜けたヤン・ウェンリーに深い共感を覚えているとも思うのです。
宇宙暦800年の今日、ヤン・ウェンリーは自身の意に沿わぬ形で不帰の人となってしまいました。
ただ小説上の人物であり、架空の人物であったとは言え、その人物が現実の私に教えたことは計り知れない程のものだったのです。
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★私は酒は飲みますが、煙草は吸わないです。
理由は簡単。喘息持ちだということと(←酒飲みと言う時点で説得力は無いですが(笑))、お金がかかって仕方が無いということです。
ただ煙草を吸う人にとやかくは言うつもりは無いですね。個人の嗜好ですし、止めようと思っても止められないのはクセと同じようなものですからね。
ですが、同じ煙草を吸う人でも、歩きながら吸う人と、道端に煙草を捨てる人は大嫌いですね。ましてや、くわえ煙草でバイクに乗っている同業者なんぞは論外ですね。
マナー以前の問題ですし、何よりも危険です。
近年、海外では煙草を麻薬並みに規制しようとする国さえ現れていますが、こう言った事態に至った原因の一つに、前述したマナーの問題があると私なんかは思います。
逆ギレする前に少しは我が身を振り返って欲しいと思います。
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★昨今の国会論議を観ていると、つい「こんな議論を続けていいのか?」などと言う疑問が良く頭にもたげてきます。
同じ事を考える人は私以外にもたくさんいるようで、中には、世間がリストラにもまれるような時代だから、役に立たない議員の定数を減らすべきだという意見を述べる人も散見出来ます。
しかし、私はその意見には賛成出来ませんね。
理由は3つあります。
一つは、人口の割には我が国の国会の議員定数が少ないという点です。
意外に思われる人もいらっしゃるとは思いますが、世界各国と比較しても我が国の議員定数は決して多くはありません。むしろ、今よりも格段に増やす必要さえあります。(疑問に思われる方は、ネット上の統計などを参照すればおわかりになると思います。)
次に、我が国が「中央集権国家」であるという点です。
確かに、戦前に旧内務官僚が独占してきた知事職は戦後民選となりましたが、廃藩置県以来の都道府県の行政区画は、多少の呼称の変更こそ有りはすれ、全く変わることなく今日へと至っています。
更に、国は地方交付税交付金や国庫支出金などといった地方への「財政支援」によって、戦後も一貫して地方への「統制」を続けており、こう言った点からも地方自治というのは現在も完全には確立していないというのが現在の実情であると思います。
こう言った地方統制も含めて国家が極めて広範囲な統治権を有している限り、その事を議論すべき議員の数が多くなるのは自明の理だと思います。
最後に、寡頭政治の防止の必要性です。
議員定数を少なくするということは、それだけ民意を汲み上げるパイプを減らすということです。そのことは結果として議論の幅を狭くする結果となり、そして最後には独善的な政策が生まれる危険性さえ孕んでいます。
少数による議論は、確かに議論のスピード化を促すのかもしれませんが、一方で上記のような危険を持っていることも覚えておく必要があると思います。
では、どうすればいいのか?
それは、国会議員の議論する項目を減らすことです。
具体的に言えば、地方分権を更に進めて強力な地方行政区を作り、国土開発などの権限を委譲し、外交、国防と言った大局的な事柄については国家が受け持つという体制を構築することです。いわゆる、道州制や連邦制と言った考え方ですね。
議論する項目が減れば、自ずから議論する人間も減らせる道理だろうと思います。
また、従来の参議院が連邦議会として各地方間の利害の調整にあたり、衆議院が国民議会として主要な議論をするという考え方も面白いと思います。
どっちにしろ、一つの国家が一億人超の国民と世界有数の経済を支配するといったこと自体に限界が来ていると私なんかは思うわけです。
まあ、ここまでするにはむろん憲法の改正が必要になると思いますが。
何にせよ、本気で改革を考えているのなら、小手先の延命策などでは駄目で、徹底的にやる必要があるではないでしょうか。
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★まずはようやく部屋の片づけ&掃除が終わりました。
でも去年は一日で出来たことが今年はとうとう三日かけるはめになってしまいました。
やっぱり人間、切羽つまらないと出来ないものですね。(苦笑)
で、今年最後の日と言うことで、ちょっと2001年を振り返ってみたいと思います。まあ、仕事については前に書きましたので、今回はプライベートについてと言うことで。
まずは個人的に今年一番の出来事だったのが、このウェブサイトを立ち上げたことですね。
もともとサイトを作りたいという気は以前からありました。ただ、「何をテーマにするか」「何を発信したいのか」という疑問を解決出来ずにずるずると何年もほったらかしにしていました。
ようやく今のサイトの形態を考えついたのが去年の暮れで、製作に取り掛かったのが今年に入ってからです。そして一ヶ月の間、試行錯誤を繰り返して(公開日以前の日記はその時の名残りだったりします)、ようやく二月四日の公開へこぎ着けました。
公開当初の考えとは異なって、どちらかと言うと日記にアクセスが集中すると言うサイトと化していますが、それでも思ったよりは訪問される方も多くてとても感謝しています。
ただこのサイトは、当初立てていた構想の半分も出来ていないのが実情です。来年はまずはその残りをなるべく早く作り上げたいなあと思っています。(結局、リニューアルも今年には間に合わなかったですし(苦笑))
ところで、今年は新世紀の幕開けに相応しく、様々な事件に彩られた一年だったと思います。
一番印象に残っているのが、やはりアメリカの同時多発テロですね。
この事件から続いた一連の事件が我々に遺したことと言えば、狭量な思想というものがどれほど社会に害毒をたれ流すかと言うことだったと思います。
これは何もくだんのイスラム原理主義勢力だけの問題ではありません。民主主義国家の総本山であるはずのアメリカにおいてでさえ、キリスト教の保守勢力が、魔法などといった悪魔の考えを助長するという理由で、ハリー・ポッターの焚書を行おうとしたりしています。
これらは、どちらも根は同じなんですよね。
他人の思想を受け入れない、あまつさえ排斥する。
そして、自身に反対する意見を持つものを殺戮することを、聖戦という言葉で美化し、そして大量殺戮したものが英雄と讚えられるという救い難い現実。なるほど、道理で世界から戦争が無くならないわけです。
異教徒への弾圧の嵐が吹き荒れた中世からは既に何百年も経過していますが、新世紀と呼ばれる時代にあってもこのような事態に直面するとは思っても見ませんでした。
ただ全ての人がそういう人ばかりでは無いことに希望を持っています。
今回はちょっと暗い話ばかりになってしまいましたが、来年の終わりには明るい話が出来ればいいなあと思います。
最後になりましたが、今年一年ここを訪ねてくださった全ての方々に深くお礼を申し上げます。
そして来年も相も変わらぬご愛顧のほどを宜しくお願い申し上げます。
それでは皆さん、良いお年を!
追伸
関西が世界に誇った大指揮者、朝比奈隆先生のご逝去に対し、
謹んで哀悼の意を表しますとともに、故人のご冥福をお祈り申し上げます。
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★あの悪夢の同時多発テロ事件からほぼ一か月。
ついに事態は第二局面を迎えました、望むものと望まぬものとが相半ばする形で。
一方はこれは悪しきテロリズムとの戦いと称し、
もう一方はイスラム教徒と異教徒との間の聖戦(ジハード)と称しています。
どちらが果たして正しいのでしょうか?
答えはお互いに自身を正しいと信じている、この言葉に尽きると思います。
ただテロリズムに対抗するという普遍的な名分を持っている分、アメリカを中心とした側が幾分か世界から幅広い支持を受けやすい状態ではあるのだろうと思います。
前の日記にも書きましたが、今一番危険なのが、この戦いがイスラム諸国とそれ以外の諸国との戦いという形に変容してしまうことだろうと思います。そのような形に持っていこうとしている勢力があることも事実です。そして、もしそうなった場合、間に拡がった亀裂は短期間に容易に修復することは不可能となってしまいます。そのことは、価値観の異なる宗教勢力が過去の歴史においてどれ程の人々を生贄の祭壇へと捧げたかということからも容易に推測出来ます。
このことからも、今回の武力行使も実に過去に類を見ない程の慎重さが求められています。ましてや今回のように、一度武力を行使してしまった以上、もう後には引けなくなってしまいました。
こうなった以上は、今回の枠組みの中で事件が速やかに解決することを強く願っています。ただ、その枠組みが崩壊してしまった時、三度世界中が戦火の渦に巻き込まれるかもしれません。それが杞憂であればと、私自身強く願っています。
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★先日のテロ事件の後、日に日に戦争への道をひた走っている印象を受けます。
確かに人類の歴史上、戦争と言うものは絶えることがありませんでしたし、一時の平和な時代を築けたとしても、いわゆる恒久的な平和というものはこれまで実現したことがありませんでした。
クラウゼヴィッツが戦争論で著した通り、戦争というのは政治(外交)の道具でありますし、これよりましな手段を今までに人類が見つけられていない以上、政治の道具としての戦争行為は断続的に各地で発生し続けるでしょう。
ですが、私は戦争行為というものは、政治・外交における失敗の結果でしかなく、まさにその失敗を糊塗するだけの道具でしかないと考えています。
特に無用の師(いくさ)は、単なる軽薄な政治目的以外に何ら意義を持たないばかりであるか、人々に無用の苦痛を与えるものでしかないと思います。
今、非常に憂えているのが、攻撃の目的が対テロリストから対イスラム原理主義勢力、そして拡大解釈して対イスラム勢力へと攻撃の対象が微妙に変わってきている点です。さらにアフガニスタンの(アメリカの主観に基づく)解放という目的も加わり、ますます収拾がつかない方向へと向かっているような気がしてなりません。
戦うのは(この場合、必ずしも武力を用いるという狭い意味ではありません)テロリズムに対してであり、決してイスラム勢力では無いということを我々は今一度確認すべきです。もしここで思い違いをやってしまうと、我が国はこれまで脈々と築き上げてきた中東諸国との繋がりを一挙に失う可能性があります。こう言うときだからこそ冷静な対応が求められると思います。
血を流さずに貢献するのは恥ずべきことであるという論調が最近特に目立ってきています。しかし、血を流すことだけが貢献することだという考え方も間違っていると私は思います。政治家として真に尊敬出来る人物とは、無用な流血を回避できる人物のことであり、ただ味方の流血を強いる政治家は三流の烙印を押されても仕方が無いと思います。
私は欲張りなので、血を流さずに問題が解決出来ることを強く望んでいます。
しかしこのような考え方というのは、本当に平和ボケであり幻想でしかないのでしょうかねえ。
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★くだんの少女誘拐事件について、ステレオタイプ的な「アニメ・ゲーム悪者論」が出てきていますね。
どうもこう言う事を主張する人というのは、悪い原因さえ除去すれば万事めでたしめでたしとしか考えない、大変おめでたい方々ばかりに思えて仕方がないのは、私だけでしょうかね?
まあ、このような主張をする人たちと言うのは、時代が変わっていることをまるで認識しない頭の固い老いぼれどもばかりだから(苦笑)、本当に年はとりたくないですね。
レッテルを貼り付けて、「こいつは悪者だ」と言ってるだけで万事がうまくいく社会というのは、10年以上前の冷戦時代の終焉で既に終わっていると思うのですが。
別にアニメを見ようがゲームをしようが、トレンディーなドラマを見ようが、結局悪いことをする人間は悪いことをするんですよね。いい加減、自分とは違う特殊(だと彼らは考えている)な人間を攻撃することで、鏡に向かって「私はマトモだ」などと自己陶酔するような了見の狭いことは止めて欲しいものです。
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★今日、小泉首相が靖国神社を参拝されたようですね。
今回の靖国参拝の問題点は、大きく上げて、
1.靖国神社という日本神道の宗教施設に日本国の首相が参拝する点。
2.靖国神社に東京裁判でA級戦犯として裁かれた人々が合祀されている点。
3.諸外国では「光復節」などとして民族解放の日として祝われる8月15日に、侵略者達(と、諸外国は考えている)を慰霊するために日本国の首相が参拝する点。
以上の三点が上げられると思います。
ただ私個人の意見としては、靖国神社へ参拝することは間違った行為ではないと思っています。
と言いますのも、現在過去の戦没者を慰霊する施設としては靖国神社しか無く、戦没者を慰霊するためにはそこに参拝するしか無いからです。政教分離の原則に抵触するという意見もありますが、本来の政教分離とは、国家を支配する宗教の存在の否定、すなわち国教の否定であり、一国の最高行政官が特定の宗教施設に参拝することが直ちに政教分離を逸脱するかと言えば、一概にそうとは言いきれない所もあるんじゃないかと思うのです。
ただし、A級戦犯の合祀と諸外国への配慮というのは意見が分かれる所だと思います。
確かに我が国を敗戦、そして破滅へと追い込んだ指導者層は断罪されてしかるべきだと思います。しかし、一旦はA級戦犯のリストに上がりながら政治的判断によって外された人の存在もありますし、必ずしもA級戦犯だけが断罪されるべき指導者層だとは言いきれないと思います。一度、戦犯というものの再定義が必要なのではないかと思いますね。
諸外国との関係については、これは対話の積み重ね以外に方法が無いと思います。最近、諸外国の人々は我が国が右傾化していると感じているようですが、国内では実際にそうかと言えば全然そんな風には思えません。これは明らかに外国との対話が進んでいない証拠だろうと思います。
対話は国家同士だけがするものではありません。幸い最近ではネットという便利なものが出来ていますし、個人同士の対話というものもこれからは重要になってくると思います。これらが親密になってくれば、これまでの対立だけの関係から少しは前に進むと思うのですが、やっぱり空理空想でしかないのでしょうか?
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★ここ何か月かの小泉政権の動きと回りの反応とを見ていると、次の二つの点を強く感じます。
一つは、一つの風潮に反抗することを許さないという、一部(あるいは大勢か)の熱狂的というかヒステリックなまでの動き。
そしてもう一つは、それらの反応に閉口して、あるいは支持を失うことを恐れて、敢えて対抗する姿勢を見せずに無難にこの時局を乗り切ろうとする対抗勢力の動き。
以上の二点です、前者については、与党野党を問わず小泉首相とその閣僚を批判する人間に対して罵声や感情的な反発を浴びせる一部(あるいは大勢か)の民衆であり、後者については、その反応を恐れて正面切って小泉内閣を批判できない与党の非主流派や野党であろうと思います。
私はこれらの動きは、一つのブームに熱中しやすいという日本人の国民性を強く感じるのですが、一方でこれらの動きについては二重の意味で強い危惧を感じています。
一つは大多数の支持を背景に小泉首相(あるいは小泉内閣全体)が、独善的な行政を指向する可能性があるということ。そしてもう一つが、小泉首相が飽きられて支持率が低下し、結果として改革が徹底せず我が国にとって更に悪い方向へと進んでいく可能性があるということです。
杞憂に過ぎないのかもしれません。
しかし、前者についてはドイツのナチス政権という前例があり、後者についても細川内閣という格好の前例があります。政治において、イメージだけが先行することがどういうことをもたらすかということをしっかり学んでいる人々はまだ少ないのかもしれません。
暴走するリーダー、あるいはボロボロにされて棄てられるリーダー。
どちらのようなリーダーにも、小泉首相にはなって欲しくないですね。
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